ひとりの死への後悔

 山が好きな私ですがここのところもっぱら自分では登らず、ネットの記録を読んで楽しませていただいています。ここ数年でフォローしていた方が3名お亡くなりになりました。登山のリスクというのは登山技術、それは悪条件を見極める知識と、困難を乗り越える技術と体力と経験、そして判断力を含めた総合的な実力と見合うかどうかが全てです。それを超えたものは生死を賭けた冒険です。しばしばその境があいまいではあるのですが。
 昨年の12月の記録は悲しいものでした。日本屈指の山スキーヤー。厳冬期のホワイトアウトするような中でも行動できる体力と装備を駆使して上り、帰って来ます。ところが3人で登って、下山中に1人を置き去りにしなければならなかったのです。亡くなった1人は遠ざかっていた山の復帰第一戦でした。後から振り返れば装備の甘さ、体力の甘さがありました。下山途中でハンガーノックと雪目で朦朧として行動できなくなり、厳しい条件下それ以上ともに行動すると全員が危険。涙を飲んで残さなければならなくなりました。
 コロナ下での2年、場は違っても同じことが起きてきました。前触れもなく突然罹患して、死に目にも会えずに亡くなる家族。医療の現場ではもう少し早ければ救えたいのちを救えなかった無力感。もちろん話には聞きます。しかし、それが自分に起こるかもしれないという切迫感は持ちにくいのです。震災のときに耳にした正常化バイアス、自分は大丈夫という心が働くからです。
 もし、今日でいのちが終わるなら、もし、今日でお別れしなければならないとしたら、どんな言葉をかけるべきでしょうか。どんなことをしてあげるべきでしょうか。その日は突然やってくることがあるのです。いつでも身の周りを整え、ともに生きる人たちとよきものを分け合い、言葉と思いと行いに後悔を残さない生き方を主に力をいただいて心がけたいものです。