共に神の御前に立つ日を待ち望む

 コロナも2年半近く、何の恐れもなく皆で集まっていた日がすでに遠く感じられます。最初はしばらくの間のことだろう、そして、これほど長引くとは誰も思っていませんでした。一時のことならばこの時だけだからと思えますが、こうも長引くとボディーブローのようにじわじわと力をそがれていきます。
 教会の交わりというのは不思議なもので、特別なことがあろうともなかろうとも、毎週必ず集まります。この必ず集まるということは他に類を見ない教会にしかない神が与えくださったユニークな集まりです。たとえ、ことばを交わすことがなかったとしても、共に神の御前に立つということは大きな励ましです。一週間、それぞれの生きる場ではそれぞれに闘いがあったことでしょう。それは幼い者であっても、若くても、老いていても、男であっても女であってもそうです。
 老いた者たちはかつて経験したところを今通って労苦している者たちを思いやることができるでしょう。そして若い力にこれからの希望を見て励ましをいただくことでしょう。若い者は先に幾多の困難を通った先達がいることに慰めをいただきます。私たちは決してひとりではなく、共なる兄弟姉妹とともに神の御前を生かされている。礼拝の場にともに立つということには、一人一人が神の御前に立つという面と、共に神の御前に立ち互いに励ましをいただくという面とがあるのです。
 神はそのように主にある教会の交わりを備えてくださったのですが、それぞれ分かれた礼拝生活を続けていると、教会の中に生きて働く神の交わりの豊かさと力が希薄になります。それはさながらバビロン捕囚ならぬコロナ捕囚のようです。捕囚期に散らされた神の民は再び神殿を再建して一同揃って礼拝をささげたとき、大きな喜びに満たされました。それは、もう一度新たな神の民の再建だったからです。私たちも神の教会の再建を新たにする日を待ち望みましょう。