役員の奉仕と支え合う恵み

 何事でも人を選ぶということは大変なことです。私たちの周りでは自治会にしろPTAにしろ、誰かがやらなければならない役ですが、多くの人が面倒がり、役を押しつけあって、なかなか決まらなかったりします。自分から献げて人のために役に立とうと考えるよりも、自分の損得勘定でしかものが考えられないという世の中なのでしょうか。
 高齢化ということも無縁でないようにも思います。人は頭ではわかっていても、その年になってみなければ感じない、わからないことが多いのです。からだがえらい、思うように動けない、新しいことに対応することへの抵抗を感じる。日本の社会が感じることは教会でも無縁ではありません。次の世代の者へ奉仕のバトンを渡し、励まし、見守り、支えていくことは大切なことです。
 教会というところは奉仕で成り立つ共同体です。誰もお金のためにする人はいませんし、名誉のためにする人もいません。献げることで成り立っているのです。献げるということには犠牲を伴います。それはイエスのくださった愛の犠牲をすべての基とするのです。ですから奉仕は、まず神への奉仕です。それを忘れてしまうと「なぜ私ばかりが」という思いになりやすいのです。これこそすべての奉仕の出発点です。
 また奉仕を委ねる側の者たちは、任せたら任せっぱなしでいてはなりませんし、文句付けたりするのはもってのほかです。教会はキリストのからだだからです。各器官が各々自分の奉仕をささげて、からだを健康を保つのです。「誰かが」ではなく、「私が」です。みなが余裕のない時代です。負担が重すぎる奉仕はみなで分担して全うできるようにと方法を変え、補い合い、支え合うことも大切です。そして、もっと互いへの敬意と感謝をもって励まし合い、ともに生きる恵みを喜び合いましょう。
(牧師記)