3.11、十年一昔に祈ること

 3.11、東日本大震災から明日で丸13年が経ちます。これだけの年数が経過すると、復興事業も終わり、もう被災地とは呼ばれることもなくなり、人の記憶も薄れていきます。未だ解決には膨大な時間がかかる原発を除けば、かつて大きな地震と津波があったという「過去」になってきています。
 当時は次々と流れてくる津波の映像に衝撃を受け、原発の過酷事故は「東日本に人が住めなくなるのではないか」というような状態でした。消防車を危険な原発の直近まで行って放水するとか、ヘリコプターからの放水で原発を冷やすという、「もう、それしかないのか」というような決死の作業を、計画停電で真っ暗な夜を過ごしながら、日本中が固唾を飲んで見守ったことでした。
 「絆」という言葉が溢れ、「東北がんばっぺ」と連帯が叫ばれる中、私はこの国が問われ変えられるのではないか、人の心が大切にされ、一人一人のいのちが大切にされ、神の御前に心開かれるのではないかと思ったのですが、残念ながら変わってはいません。いや、むしろ世の中の流れはステップダウン。落ちてきているように感じます。十年一昔とは言いますが、人ごとではなく、自分自身もどうだっただろうかと自省します。
 人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。

 エレミヤ17:9-10         
 主はユダの末期にこう語りました。社会が問題なのではなく、一人一人の心が問題なのです。そして、それを取り扱われるのは主なる神様ご自身に他ならないことを教えられます。どうか、主よ。あわれみ給え。この国とこの民を。願うことは、主が心を探り、救い主キリストに向かう魂を与え、み救いを輝かせてくださいと。