「一番偉いのは誰か」マルコ9:30-37
イエスの一行はピリポ・カイザリヤの地方から、ガリラヤを通ります。これからエルサレム、十字架への道を進んでいきます。イエスが自分を捨てようとするその中で弟子たちは、だれが一番偉いかを論じあっていたのです。 人はみな一番 Continue Reading →
イエスの一行はピリポ・カイザリヤの地方から、ガリラヤを通ります。これからエルサレム、十字架への道を進んでいきます。イエスが自分を捨てようとするその中で弟子たちは、だれが一番偉いかを論じあっていたのです。 人はみな一番 Continue Reading →
変貌山でのイエスの輝かしい栄光のお姿とは裏腹に、山を降るとそこでは、口をきけなくする霊につかれた息子をいやすことができない弟子たちの姿がありました。これまでもいやしの記事は多くありましたが、ここでは弟子たちがどうしてで Continue Reading →
恐れと不安は人を不自由にします。自らを守るために食べ物や物資、知識を蓄え、一方で周りから身を守るために武装します。そんな世の中で、私たちはどのようにして平和をつくることができるでしょうか。 アラムはイスラエルの宿敵で Continue Reading →
イエスは輝かしい栄光のお姿を見た弟子たちに口止めをされました。それは、「人の子が死人の中からよみがえる時まで」です。それはイエスが十字架とよみがえりという使命を全うしなければ、この出来事の意味を理解できないからです。 Continue Reading →
私たちが生きるところには「目に見える世界」と「目に見えない世界」があります。ペテロは「あなたはキリストです」という告白をしますが、見えていたのは「目に見える世界」です。彼を含めて弟子たちが描いていたキリスト像は、イス Continue Reading →
この箇所を機に、イエスは受難と復活を弟子たちに教え始められました。受難と復活は「なければならない」、英語で言えばmastです。それこそがイエスの使命だからです。キリスト教の誤解の一つは、キリストの教えや精神を学び生かす Continue Reading →
7つのパンで4千人を養われた奇蹟の後、イエスは弟子たちに「まだ悟らないのか」と問いかけられました。そして、ここでは、「私は誰か」という問いかけをします。この2つの問いかけが、この福音書の中心的な大切なことを言い表してい Continue Reading →
マルコ8章はこの福音書の折り返し地点です。「まだ悟らないのか」と問いかけ、「私は誰か」という問いと前後しながら、一対のいやしの出来事が記録されています。それが、目の見えない人の目が開けられるいやしであり、7章の終わりに Continue Reading →
人生には、苦しみが付きものです。また、自分の心を見つめれば、醜い罪や神への不信仰を見出します。社会の動向を見ても不安要素が溢れています。この暗闇の世にあって、私たちの生きる希望や喜びをどこにあるのでしょうか。答えは、神 Continue Reading →
私たちにとって、「父」の最大モデルは自分の父親です。無意識にそれは刷り込まれています。私たちは自分が受けたようにします。よいものを受けた人もいれば、悪いものを受けた人もいます。パーフェクトな父親などどこにもいません。そ Continue Reading →